考えるパンク

花に嵐のたとえもあるさ サヨナラだけが人生だ

プロローグ

SNSに嫌気が差していた。

 

Facebookは最早何を更新して良いのかすらわからなくなった。 たまにスクロールすれば誰の子供だか分からない新生児の写真コンテストか、恐らく過去に知っていたかもしれない人達による取り留めのない会話のオンパレードとなり、最早行く気のない同窓会に間違ってカチ合ってしまいました状態となっていた。

 

インスタグラムはやっていない。 元来、携帯電話は電話とメールさえ成り立てば他の機能は停止しても良いと思っている。LINEが破産宣告をして世の中が阿鼻叫喚の渦になっても私は鼻歌混じりでYahooメールを爪弾く自負がある。

カメラの写真は一斉にデータが吹っ飛んでも何一つ困らない。そもそも写真が好きではないのでインスタグラム なるものが何の為に存在しているのかイマイチ理解できず、つい最近まで暇の限りを尽くした中高生と愛すべき露出狂の女性達が10秒で謎の踊りを舞う為のアプリだと思っていた。

 

頼みの綱、というか私にとって唯一の社交場であったツイッターは、今ではすっかり興味がなくなってしまった。おもむろに開いては見るものの、あのタイムライン全体に流れる空気に、耐えられなくなってしまった。

 

世間では不景気だの、コロナウイルスだの、政権交代だの、誰某の不倫だの、数多の罵詈雑言のフリー素材が揃い踏みしている。元々便所の落書きレベルを文字通り呟く場所の筈が、いつからか匿名希望で講釈を垂れ流したり、さもしい広告活動の場所へと変わっていた。

それが、たまらなく嫌だった。私は、便所の落書きをする場所がただ欲しかった。

 

私は、とにかく書く場所が欲しかった。

 

誰にも邪魔されず、誰にも何も言われず、承認欲求に囚われない、自分の感性を放つ場所が欲しかった。 そもそも、ツイッターの140文字はあまりにも短すぎる。ご覧の通り、3行でまとめられる事を2万字インタビューに変える能力に長けている私は只ダラダラと、己の欲求を満たす場所を追い求めてここに来た。

本来ならアナログな日記でもやりたいものだがいかんせん、生半可に現代文化に適応してしまった。

 

ブログ自体は、中学生の頃から書いていた。 今思い出せば、穴があったら入りたいどころか穴という穴をつなげて地下帝国の交通機関をより快適にご利用頂くインフラ整備したい位の代物を続けていた。暗黒歴史に固く記憶のボルト接合したのか知らんが、タイトルもページの在り処もさっぱり思い出せない。ただ、きっと本質的にはあの中学生の頃から何も変わっていない自覚があるだけ、成長としておきたい。

 

時の流れは早いなんてもんではなく、いつの間にかあの頃の童貞厨二病永久患者はサラリーマンになっている。 少し前の自分であれば、ブログなんて書いてる暇があれば床擦れするまで惰眠を貪りたいと思っていたが、えらいモノで少し、ほんの少しだけ自分の生活に余裕が出てきた。そして、自分の中でむくむくとこの行き場を失った感情達を吐露する空間を欲したのであった。 (約8年使って職場の新入社員の女の子にアンモナイトの化石と言わしめた携帯電話をついに化石手前のシーラカンスみたいな携帯電話に機種変更し、画面がやや大きくなった、というのも大きな要因である。)

 

寄稿の行く手を阻む幾多のログイン承認とパスワード設定を乗り越えて、ようやくここまできた。途中で7回ほど辞めようと思った。 これからは1日の終わり、私にとって本当の夜が部屋に入ってくるほんの1時間を使って、自分の欲を満たしていこうと思う。もしこのブログを見た方がおられれば、そしてこの深夜の大学生のノリで書き上げた怪文書をラストまで見てしまった奇特な方がいれば、くれぐれ申し上げておきたい。この文章に生産性は全くないし、これをみて明日の貴方は何も変わらないし、世の中は相変わらずなんて言うか、ファッキンな日常のままだ。せめてそれぞれお互いの利益の為に私はそっと書く。そして貴方はそっと見て、そっと笑ってくれたら充分です。

 

私はただ、書く場所が欲しかった。