考えるパンク

花に嵐のたとえもあるさ サヨナラだけが人生だ

働くということについて

気が付けば社会人となり8年の月日が流れた。

 

学生の頃、一生来ないと思っていた30歳はそれはそれは鮮やかに何の感慨も残さず通り過ぎ(30歳の誕生日、私は名古屋でペロンペロンに酔っ払い頭痛と吐き気に耐えながらカプセルホテルで朝を迎えた。メールの着信音で目を覚ますと父親から一言だけ「おめでとう」と書いてあり、父上、現状は何もおめでたくありません、と返した。)朝日と言うには大分憚られる日差しに迎えられながらビルを出て路上に立ち尽くすと、またいつもと同じ水曜日がスクロールしていた。

 

遡る事早10年前、就職活動をしていた私は謎の自信に満ち溢れていた。容量よく、気立ての良い良妻賢母のような私の天賦の才を、世の人事部は決して見逃さぬ。山田太郎のドラフト会議並に引く手数多の企業からラブコールを受け、3,000円ランチバイキングで色とりどりの皿の前に立つOLよろしくナイフとフォーク片手に相手を品定めをすれば良いものばかりだと思っていた。この私が直々に筆を取り、あるはずの無い志望動機を絞り出してわざわざエントリーシートを書いたのだ。それくらいの対応はして然るべきだろう。

そんな甘い幻想は開始2日ほどで早々に砕かれた。そこまでしなくてもいいんじゃないかな、と言うほど砕かれた。

しかしそれでも根拠のない自信は揺るがず、

学生にとって決して安くない京都-東京間の夜行バスに揺られながら、隣に座るコレステロールの権化のような悪臭の輩を横目に鼻を摘みながら何故に私がこのような劣悪な環境でわざわざ出向かねばならぬのだ、などと憤慨していた。

結果、そのような救いようのない自惚れ野郎はとんでもない量のお祈りを頂く事になり、余りにも多方面から祈られるので自分が何か宗教的な理由で崇められているのではないかと錯覚を覚えた。

 

当時、私は各業界の売上1位の会社しか受けないという謎のマイルールを課していた。もしも人生で一度タイムマシンが使えたならば真っ先に当時の自分をタコ殴りにする。

しかし流石に10も20も祈られるので、その頃からふと、もしかして自分は天才じゃないのかもしれない、と思い出した。余りにも遅い目覚めであった。お早う。

就活当初、意気揚々と鼻唄混じりに電車や夜行バスに乗り込んでいた私は終盤になると最早鼻歌どころか呼吸の有無すら疑わしくなり、面接が終わるたびに帰りの阪急電車ではYouTubeで猫の動画を見て漁るほど心が荒んでいた。

 

そんなこんなの紆余曲折あり、私は今とあるメーカーで営業をしている。

あれほど就活で苦労した筈なのに入社式を終えると私の自惚れは一方的に治らず、営業なんてものは持ち前のトークと明るさ、誰からも愛されるべきルックスと屈託の無い笑顔により勝手に向こうから契約が舞い込んで来るもんだと思い込んでいた。一体全体どこからそんな自信が泉の様に湧き出てくるのか、甚だ理解に苦しむ。もしも人生でもう一度タイムマシンが使えるのならば当時の自分を血塗られた十字架に吊し上げて鞭打ちの刑に処す。

 

そう言う訳で私は社会人になって、しっかりと苦しむ事になる。一体どこから人生を間違えたのか、就活当時から記憶を辿っても冷静に考えれば考えるほど間違っていた場面しか無かった気もしなくはないので最早タイムマシンは意味を成さない。こうなってくると未来も過去もデロリアンにニトロをブチ込む必要は無さそうだ。アインシュタインも呆れている。

 

入社1〜2年目は、本当に細かい記憶がない。信じられ無い話であるが、毎日夜中の3時まで働いていた。空が白む頃、フラフラになって事務所の鍵を閉めてふと気がつくと後ろに人が立っていて心臓が止まりそうなった。顔を見上げると朝刊を握り締めた新聞配達の人だった。

倒れそうになりながら5時に自転車を漕ぎ、家に帰る。シャワーを浴び、クタクタのスーツをとりあえず着替えてからまた6時に家を出る。開店準備をし、先輩達の出勤を待つ。これをみっちり1年間やり切った。今覚えば完全に気が狂っている。

そんな狂気の沙汰DAYSを過ごしながら、それでも私は仕事が全く出来なかった。毎日何かしらのノルマを課せられ、月末にはもうこれ以上血液以外の水滴は出ませんよ、と叫びたいくらいボロ雑巾のように締め上げられた。

毎日アポイントが取れるまで戻ってくるなと言われ、汗と涙でくしゃくしゃになりながら夜の10時にアパートのインターフォンを押すとお前、何時だと思ってんだと全身刺青のおっさんが出てきた。泣きっ面に蜂どころの騒ぎではない。余命半年患者にテトロドトキシンくらいの状態で1年が過ぎた頃、真夜中に自転車を漕ぎながら、自分はもしかしたら天才じゃないのかもしれない、とふと気がついた。タイムマシン(以下略

 

今思えば、遡ること就活の時から、全ての言動は自信ではなく、自惚れであった。自分は他の人とは違うと言い聞かせ、上手くいかないと何かの所為にしたかった。自分は何も悪くない、周りに分かってもらえ無いことが悪いんだと、そういうお前だって、こうじゃないかと。そんな事を思い続けて1年間過ごしていた。

当時の上司のことは、恨んでいたなどと一言では語り尽くせず、いかにすれば合法的に、社会的に死に追いやることが出来るかを常日頃から考えていた。当社自慢のコンクリート外壁を二階から落とせ無いかと1日1万回は考えていた。そんなマッドサイコパスみたいなやつが売れるわけがない。

 

しかし、冷静に振り返ると真剣に最後まで自分に向かい合ってくれたのはその上司だけであった。何でこんなに言ってるのに分からないんだと、時にはその上司が泣いていた。当時それを私は冷ややかな目で見ていたが、今はそんな自分を心から恥ずかしいと思っている。

数年後に自分の情けなさや愚かさに気がついた時から、その上司には感謝の念しかない。お互いがそれなりにキャリアアップし、既にそれぞれ別の地で働いてはいるが今でもその上司とは、年に数回2人で食事に行く程になった。

 

前もって書き記すが、私は自分が当時経験した過酷な労働環境を肯定する気はサラサラない。そして、それを最終的な美談にする気持ちも小指の先程も持ち合わせていない。

ただ自分が愚かで、強情で、感性が鈍く、それらを矯正するのに人よりも多くの時間が掛かってしまったが故の必然である。必要のない人はやるべきでないし、私と同じくらい愚かな人が仮にいたとしてもそれはその人の人生なので治さなくても良いしやりたくなかったらすぐに辞めれば良い。

 

ただそのお陰で私は、自分の恥ずべき部分とみっちり2年間、対話を繰り返してきた。自分の情けなさはどこから来るのか、何故思考はこのような愚かな回路を辿るのか、気が狂うほどの自問自答を繰り返し、ある時「仕事とは人生の豊かさをもたらすものであるべきだ」という結論を導いた。

私達は人生の多くの時間、時に家族と過ごす時間よりも膨大なパーセンテージを仕事に使うことになる。それであればその仕事を、そこそこのエネルギーで、ある種の諦観を併せ持ちながら惰性で過ごす日々の何と勿体ない事か、と思うようになった。

そう感じた次の日から、私は「どこへいっても通用する人間、誰からも求めてもらえるような役に立てる人間になろう」というのが仕事の指針となった。

ぼんやりとは感じでいたが、無論すぐにこう思いついた訳ではなく、しっかりとその働く意義が根付いたのはつい最近の出来事である。

 

入社して3年目を迎えた時、私は「誰からも文句の言われない成績を叩き出し、悠々と土日に休んでやろう」と企んだ。(入社が晴れて決まった際、私は定休日が火曜水曜と知らず、これのおかげで今日に至るまでバンドメンバーに多大なる迷惑を掛けている)

そしてその年、新入社員から2年間己のせいで苦しんだ憎悪と醜悪のポイントカードが満期になったらしく、その反動でとんでもなく良いお客様に恵まれて私は本当に全国の若手営業(多分1000人くらい)のランキングで1位を取ってしまった。

 

これで堂々と休めると思った矢先、私は4年目で副店長に就任した。約300人ほどいた同期の中で最速の就任となり一瞬チヤホヤして頂いたのだが給料は変わらず、業務量が倍になった。いよいよ頭がおかしくなりそうになった時、「そうだ、店長になれば誰にも命令されず土日に休め、かつ給料が上がるのではないか」と発案し、更に馬車馬の如く働き、そこから怒涛の如くお客様に更に恵まれ、何も分からず気がついたら店長になった。27歳、入社6年目の事である。

やれやれ、ようやくこれで大手を振って土日に休めると思ったら、店長は平社員の知らぬ所でとんでもない量の会議とレポートをこなす事を事後報告的に知る事になり、今はいよいよ本当に社長くらいにならないと土日に休めないんじゃないかと考え始めている。(一度、土曜日の夜に京都でライブをし、一晩中飲み明かして始発で帰り、朝9時にお客様と打ち合わせをしている最中、お客様の目の前で寝てしまうという珍事件が起きた。お客様はめちゃくちゃ驚いていた。私も、驚いていた。)

 

順風満帆に見えて、もちろん、その最中で苦しい事や理不尽な事、頭がおかしくなりそうな出来事は書き切れない。

先輩に連れられて行った初めての歌舞伎町で記憶を失い80万円を無くした事や、その次の週に錦で記憶を失い50万円を無くした事や、上司に命令され休みの日に愛知県の隅っこまで1万円の熱帯魚を自費で買いに行き、帰りの道で熱帯魚を抱き抱えたまま車に轢かれ10m吹き飛んだり、クリスマスイブに土下座していた事もある。

 

ただ振り返ってみると、私が本当に辛かった(自分のせいで)のは最初の2年間だけであり、その後の6年間はというと上司に恵まれ、仲間に恵まれ、お客様に恵まれ、なんだか悪くない、というより寧ろ出来過ぎなんじゃないかくらいの内容になっていた。

 

なぜ休日労働のかたわらに熱帯魚を抱き抱え車に轢かれながら吹き飛んでも、このような感情が急に芽生えたかと言うと、決して車に吹き飛ばされた時に脳の一部に重大なダメージを受けたわけでは無い。断じてない。多分。

 

それは何よりも、いろんな経験をしながら私は自分のダメな所や、反省すべき所を見つけるのが少しずつ上手くなっていったからだと感じている。

どんなに理不尽な事に思えても、本当に100%自分に非がないか?と問われれば心から無いと断言できることって、実は案外少ないと思う。

私は普段から、自分の知識不足故に政治的な発言を極力しないように気をつけているが、世の中の多くの争いは、大体のことがどっちも、どこかしら悪いと思っている。ここで大切なことは、対立や抗争は多数決では無いという事である。8割方は向こうが悪いからその話はそっちの所為だろう、と言って全てを断罪していては、マイノリティはいつまで経っても弱者だ。そして何より自分の悪い所と向き合う作業は精神的にキツいし、案外本気で探さないと見つからない。

お前も悪いけど、俺も悪かった、と言うことは意外と難しいのだ。

 

私はどんな理不尽な出来事、難しい事や苦しい事が起こっても、まずはその事象を俯瞰で見て、何が問題なのか、自分はどうすれば良かったのか、今から出来るベストは何か、を模索する癖がついた。そしてそれはただのクレーム解決や処世術ではなく、そっくりそのまま営業という仕事が求められている、お客様のコンサルティングに繋がると感じた。

そして、誰かのために役に立つように行動する事が、どれだけ自分を楽にするかを数年前から私は体感している。

私が仕事をする理由は、数字を追いかける訳でもなく、会社にヘコヘコするためでもなく、立身出世の為でもなく、ただ、目の前の人に喜んでもらう事だからだ。当然、私は会社から給料をもらっている訳なので、バランス感覚は必要だが、軸がぶれなければそんなに難しい話じゃない。

よって私は、今の仕事に全く苦がない。ノルマも、残業も何のことはないし、前述したアホみたいな逸話のオンパレードも、どこかの飲み屋で笑い話に出来れば、終わる。そして何より、誰かの役に立つことを最優先で、プロの仕事に徹すれば面白いように結果が出ることも肌身で確信した。

しかし前述の通り、その仕事が良いか悪いかは、自分で勝手に選べば良いのだ。拒否権も続投の意思も、全ては自分の権利である。

 

よく「職業に貴賎なし」という。

公務員が偉い、工場はキツい、風俗嬢は偉くない、営業マンは大変そう、EXILEはチャラい、とか、そういう話では無いと私は思っている。

誰かのために役に立つというのは、生きている以上、必要不可欠な行為だ。自分1人の力で生きている、自分と違う価値観、思想と出会った時に受け入れられないという感覚そのものがおこがましいのである。そして、生きている以上対立や争いは生まれる。公務員だろうと、町工場だろうと、風俗嬢だろうと、クソ長い文章の終盤で宗教活動みたいな文句をブログで垂れ流す営業マンだろうと、EXILEだろうと、自分の事しか考えれないその心が、貴賎の差なのだと、思っている。

 

仕事とは、私にとってそういうものである。

 

 

マジで文章長い

プロローグ

SNSに嫌気が差していた。

 

Facebookは最早何を更新して良いのかすらわからなくなった。 たまにスクロールすれば誰の子供だか分からない新生児の写真コンテストか、恐らく過去に知っていたかもしれない人達による取り留めのない会話のオンパレードとなり、最早行く気のない同窓会に間違ってカチ合ってしまいました状態となっていた。

 

インスタグラムはやっていない。 元来、携帯電話は電話とメールさえ成り立てば他の機能は停止しても良いと思っている。LINEが破産宣告をして世の中が阿鼻叫喚の渦になっても私は鼻歌混じりでYahooメールを爪弾く自負がある。

カメラの写真は一斉にデータが吹っ飛んでも何一つ困らない。そもそも写真が好きではないのでインスタグラム なるものが何の為に存在しているのかイマイチ理解できず、つい最近まで暇の限りを尽くした中高生と愛すべき露出狂の女性達が10秒で謎の踊りを舞う為のアプリだと思っていた。

 

頼みの綱、というか私にとって唯一の社交場であったツイッターは、今ではすっかり興味がなくなってしまった。おもむろに開いては見るものの、あのタイムライン全体に流れる空気に、耐えられなくなってしまった。

 

世間では不景気だの、コロナウイルスだの、政権交代だの、誰某の不倫だの、数多の罵詈雑言のフリー素材が揃い踏みしている。元々便所の落書きレベルを文字通り呟く場所の筈が、いつからか匿名希望で講釈を垂れ流したり、さもしい広告活動の場所へと変わっていた。

それが、たまらなく嫌だった。私は、便所の落書きをする場所がただ欲しかった。

 

私は、とにかく書く場所が欲しかった。

 

誰にも邪魔されず、誰にも何も言われず、承認欲求に囚われない、自分の感性を放つ場所が欲しかった。 そもそも、ツイッターの140文字はあまりにも短すぎる。ご覧の通り、3行でまとめられる事を2万字インタビューに変える能力に長けている私は只ダラダラと、己の欲求を満たす場所を追い求めてここに来た。

本来ならアナログな日記でもやりたいものだがいかんせん、生半可に現代文化に適応してしまった。

 

ブログ自体は、中学生の頃から書いていた。 今思い出せば、穴があったら入りたいどころか穴という穴をつなげて地下帝国の交通機関をより快適にご利用頂くインフラ整備したい位の代物を続けていた。暗黒歴史に固く記憶のボルト接合したのか知らんが、タイトルもページの在り処もさっぱり思い出せない。ただ、きっと本質的にはあの中学生の頃から何も変わっていない自覚があるだけ、成長としておきたい。

 

時の流れは早いなんてもんではなく、いつの間にかあの頃の童貞厨二病永久患者はサラリーマンになっている。 少し前の自分であれば、ブログなんて書いてる暇があれば床擦れするまで惰眠を貪りたいと思っていたが、えらいモノで少し、ほんの少しだけ自分の生活に余裕が出てきた。そして、自分の中でむくむくとこの行き場を失った感情達を吐露する空間を欲したのであった。 (約8年使って職場の新入社員の女の子にアンモナイトの化石と言わしめた携帯電話をついに化石手前のシーラカンスみたいな携帯電話に機種変更し、画面がやや大きくなった、というのも大きな要因である。)

 

寄稿の行く手を阻む幾多のログイン承認とパスワード設定を乗り越えて、ようやくここまできた。途中で7回ほど辞めようと思った。 これからは1日の終わり、私にとって本当の夜が部屋に入ってくるほんの1時間を使って、自分の欲を満たしていこうと思う。もしこのブログを見た方がおられれば、そしてこの深夜の大学生のノリで書き上げた怪文書をラストまで見てしまった奇特な方がいれば、くれぐれ申し上げておきたい。この文章に生産性は全くないし、これをみて明日の貴方は何も変わらないし、世の中は相変わらずなんて言うか、ファッキンな日常のままだ。せめてそれぞれお互いの利益の為に私はそっと書く。そして貴方はそっと見て、そっと笑ってくれたら充分です。

 

私はただ、書く場所が欲しかった。